皆さんこんにちは。塾長の米井(こめい)です。
これは、何気ない日常は小さな考え方の積み重ねでできている、だからこそちょっとしたことで世界が変わる、そんなお話です。
『進めなくなったロボット』
雨の日だった。
教室の窓に、小さな水滴が何本も線を引いていた。
「やっぱり、やめとく」
小学五年の蒼(あおい)は、机の上の紙を裏返した。
その紙には、大きくこう書かれていた。
『ロボットコンテスト参加申込書』
締切は今日。
「なんで?」
と聞くと、蒼は笑った。
笑った、というより、困った顔を隠すための笑顔だった。
「だって、ぼく不器用だし」
「でも興味あったんじゃないの?」
「あるよ。でも、たぶん失敗するから」
その言葉に、聞き慣れた響きを感じた。
失敗するからやらない。
傷つく前に降りる。
最近、本当に増えた。
「先生、知ってる?」
突然、蒼が言った。
「カマキリって、脱皮するとき、失敗したら死ぬんだって」
「…へえ」
「ぼく、あれと同じだと思う」
「どういうこと?」
「失敗したら終わるやつ」
そう言って、蒼は窓の外を見た。
小学五年生にしては、妙に達観した目だった。
その日の夜。
帰宅すると、娘がリビングで泣いていた。
床には、ぐちゃぐちゃになったホットケーキ。
「ひっく…もうやだ…」
妻が苦笑いしていた。
「“自分で作る”って言って聞かなくてね」
娘は涙目で叫ぶ。
「だって動画みたいにならない!」
見ると、形は崩壊していた。
焦げているし、生焼けだし、なぜか中央に穴が空いていた。
「もう失敗したから食べない」
その瞬間、昼の蒼の顔が重なった。
ふと、妻が言った。
「でもこれ、ちょっとすごくない?」
「え?」
「見て」
裏返されたホットケーキの断面。
中心だけ、やたらふわふわだった。
「火加減ミスって偶然こうなったんだけど、これカフェなら“半熟パンケーキ”って名前つきそう」
娘が泣きながら止まる。
「…そうなの?」
「うん。失敗っていうか、新メニュー」
その空気に、思わず笑ってしまった。
翌日。
蒼はまだ申込書を裏返したままだった。
「昨日、娘がホットケーキ失敗してさ」
「へえ」
「でも結果的に、めちゃくちゃうまかった」
蒼は笑わなかった。
代わりに、ぽつりと言った。
「それ、たまたまでしょ」
鋭いな、と思った。
子どもは時々、大人が逃げる“きれいごと”を見抜く。
「じゃあさ」
私は教室の棚から、古びた箱を持ってきた。
中には、壊れた小さなロボットが入っていた。
脚は一本折れ、配線も飛び出している。
「これ、先生が昔作った」
「え、壊れてるじゃん」
「うん。大会当日、開始30秒で転んで終わった」
蒼が吹き出した。
「ダサ…」
「めちゃくちゃ恥ずかしかった」
「で?」
「帰り道、“向いてないな”って思った」
「ほら」
蒼が少し勝ち誇る。
でも私は、そのロボットを裏返した。
底面には、小さな車輪が追加されていた。
「そのあと、“なんで転んだんだろう”って考えて改造した」
「…」
「そしたら次の年、優勝した」
蒼の顔が止まる。
ありがちな成功談だと思ったのだろう。
でも、話はそこで終わらなかった。
「でもな」
私は笑った。
「優勝したロボット、全然覚えてないんだよ」
「え?」
「でも、この壊れたやつは今も捨てられない」
蒼がロボットを見る。
「なんで?」
「これがなかったら、“考える”を覚えなかったから」
教室が静かになった。
雨音だけが聞こえる。
「できる人ってさ」
蒼が言った。
「最初からできるんじゃないの?」
「逆」
「え?」
「“どうすればできるか”を考えるクセがある人が、あとからできるようになる」
蒼は黙った。
そのとき、別の席の女の子が急に言った。
「蒼って、“失敗する自分”が嫌なんじゃなくて、“失敗して笑われる自分”が嫌なんじゃない?」
空気が止まった。
蒼の耳が赤くなる。
図星だった。
でも、多分それは蒼だけじゃない。
大人だって同じだ。
「先生」
蒼が小さく言った。
「失敗って、ほんとに悪くないの?」
私は少し考えた。
そして、こう言った。
「悪い失敗もあるよ」
蒼が顔を上げる。
「でも、“挑戦した結果の失敗”は、ほぼ材料だ」
「材料?」
「次どうするか考えるための」
蒼はしばらく黙っていた。
やがて、裏返していた申込書を戻した。
でも、名前はまだ書かない。
ペンを持ったまま止まっている。
「怖い?」
と聞くと、
蒼は笑った。
今度は、隠す笑顔じゃなかった。
「うん。めっちゃ怖い」
「そりゃそうだ」
「先生」
「ん?」
「もし失敗したら、どうしよう」
私は少し考えてから答えた。
「そのときは、“どうすればできるか会議”しようぜ」
蒼が吹き出した。
「なにそれ」
「反省会より、そっちの方が未来あるだろ」
そして蒼は、申込書に名前を書いた。
小さく、ゆっくり。
まるで、自分の可能性に貼っていたフタを、
少しだけ持ち上げるみたいに。
数週間後。
蒼のロボットは、大会初戦で止まった。
会場には気まずい空気が流れた。
蒼はうつむいていた。
私は、“ああ、やっぱり傷つくよな”と思った。
でもそのときだった。
蒼が突然、ロボットをひっくり返した。
「…やっぱここか」
配線を見ている。
悔しそうだった。
でも、不思議と“終わった顔”ではなかった。
その瞬間、気づいた。
人って、“成功した瞬間”に変わるんじゃない。
“失敗しても、自分を終わらせなくなった瞬間”に変わるんだ。
帰り道。
蒼が言った。
「なんかさ」
「ん?」
「前までは、“できない”って壁だったけど」
「うん」
「今は、“どうすればできるかな”って感じ」
夕焼けが、水たまりに映っていた。
人はよく、
「可能性は無限だ」と言う。
でも本当は違うのかもしれない。
可能性にフタをしているのは、
“できない”という現実じゃない。
“失敗したくない”という恐怖の方だ。
そして、そのフタを開ける鍵は、
才能でも根性でもなく、
「じゃあ、どうすればできる?」
と考え続ける、
小さな習慣なのだと思う。
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