忘れたからこそ、本当に覚えられる。

皆さんこんにちは。塾長の米井(こめい)です。

これは、勉強が苦手な子ほど読んでほしい、0点に近かった漢字テストがある女の子を変えた、忘れることを怖がらなくなった時、子どもは伸び始める。そんなお話です。

目次

「わすれもの係」

「また忘れたの?」

夕方の教室で、美咲はうつむいた。

漢字テスト。
昨日、寝る前に泣きそうになりながら覚えたはずだった。

「練習したんです…」

小さな声だった。

先生は答案を見る。
“湖”のさんずいがおかしい。
“橋”のキヘンがニンベンになっている。
惜しい。けれど、惜しいは丸にならない。

「昨日、何回書いた?」

「二十回…」

「じゃあなんで忘れたんだろうね」

その言葉に、美咲の目がじわっと赤くなった。

帰り道。

ランドセルを背負ったまま、美咲は公園のベンチに座っていた。

家に帰ると、お母さんに聞かれる。

「テストどうだった?」

嘘はつきたくない。
でも本当も言いたくない。

そのときだった。

「また忘れたのか」

声をかけてきたのは、公園でよく見る古い自転車のおじいさんだった。

いつも変な人だと思っていた。

夏なのに毛糸の帽子をかぶっているし、
ベンチで将棋の本を読んでいる。

「……うるさい」

「何を忘れた」

「漢字」

「よし。いいことだ」

意味が分からなくて、美咲は顔を上げた。

「忘れた方が覚える」

おじいさんは言った。

「え?」

「脳みそはな、思い出そうとした時に強くなる」

「でも先生は、ちゃんと覚えてって…」

「覚えた」

「え?」

「昨日、お前は覚えたんだろ」

「……うん」

「じゃあ成功してる」

美咲は混乱した。

成功?
0点に近かったのに?

「問題は、“忘れたこと”じゃない」

おじいさんは将棋の本を閉じた。

「忘れたあと、“もう一回取りに行かなかったこと”だ」

その夜。

お母さんは意外にも怒らなかった。

「そっかあ」

それだけだった。

そして台所から何かを持ってきた。

古いメモ帳だった。

開くと、ぐちゃぐちゃの字が並んでいる。

『玉ねぎ買う』
『洗剤』
『銀行』

「これね、お母さんの昔のメモ」

「字きたな…」

「でしょう?」

笑いながら、お母さんは言った。

「私、昔から忘れっぽいの」

美咲は驚いた。

お母さんは何でもちゃんとしている人だと思っていた。

「でもね」

お母さんは冷蔵庫を開けながら続けた。

「覚えるって、“忘れないこと”じゃないんだって」

「……え?」

「何回も戻ってくることなんだって」

その瞬間、美咲は昼のおじいさんを思い出した。

“取りに行く”

同じことを言っている。

翌日。

美咲は学校で、わざと昨日の間違いノートを開いた。

“橋”

やっぱりヘンがおかしかった。

でも今度は、自分で気づいた。

「あ」

その瞬間、なぜか少し嬉しかった。

放課後。

公園へ走った。

でも、おじいさんはいなかった。

代わりに、ベンチに将棋の本だけが置いてあった。

中に紙が挟まっている。

『人の脳は、忘れるようにできている。
だから思い出せた時、本当に自分のものになる』

下に小さく書いてあった。

『ちなみにワシも、さっきお前の名前忘れた』

思わず吹き出した。

次の日。

学校で事件が起きた。

先生が職員室で慌てていた。

「出席簿がない!」

教室がざわつく。

すると、クラスで一番しっかり者の遥香が言った。

「先生、最近忘れ物多くないですか?」

先生が固まる。

「え、いや…」

みんな笑った。

でも先生は、急に静かになった。

「……実は」

先生は照れくさそうに言った。

「最近ちょっと自信なくしてたんだよね」

教室が静かになる。

先生でも?

「忘れるって、“ダメ”だと思ってた」

先生は苦笑いした。

「でも昨日、ある人に言われたんだ」

『忘れるのは、覚え直すチャンスだ』って」

美咲の胸がドクンとした。

まさか。

放課後、公園へ向かう。

いた。

おじいさん。

でも今日は将棋の本じゃなく、学校の出席簿を持っていた。

「……先生の知り合い?」

「昔な」

おじいさんは笑った。

「先生だった」

「えっ!?」

「忘れ物ばっかりする教師だった」

「でもな」

おじいさんは空を見た。

「人間、忘れるから優しくなれるんだ」

「……?」

「全部完璧に覚えてたら、失敗した人を許せなくなる」

風が吹いた。

帽子が少しずれる。

白い髪が揺れる。

「忘れるってのはな、“もう一回大事にするため”にあるのかもしれん」

その夜、美咲は漢字練習をした。

でも今日は少し違った。

間違えても、前ほど嫌じゃない。

“あ、ここ忘れてた”

そう思うたびに、

“じゃあ、もう一回会いにいけばいい”

と思えた。

数週間後。

漢字テストで100点を取った。

でも美咲が一番嬉しかったのは点数じゃなかった。

答案の裏に、先生が小さく書いていた言葉だった。

『たくさん忘れて、たくさん取りに行けたね』

その日、公園のベンチには誰もいなかった。

将棋の本も、自転車もない。

ただ、小さな紙だけが残っていた。

『人は忘れる。だから何度でも、大切なものに会い直せる』

忘れるたびに、記憶は深くなる。

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